Dreaming Descartes


デカルトの夢 〜風景に関する存在論的考察〜

CONTENTS

序文

本稿は、所謂「風景」なるものに関する初歩的考察、恥を恐れず言えば存在論的解明を試みたものである。 第T部は、第U部で語られる主題のいささか不正確な――しかし恐らくより刺激的な――アナロジーとして書かれている。 多分に小説的なそれは、仮に成功していれば本論をより明快なものにする手助けとなろう。 主題である第U部は、主体なき地平における眼差し、そして特にその視対象であるところの風景を論理的に展開したものである。 参考文献の記載は、直接引用に用いたもの以外は割愛させていただいた。

T ある経過報告

私が手にした件の名著「建築と私」の第1260番目のコピーは、その印刷技術上の不具合によってある文字群が終始一貫欠損している。 そのことは当初私を大いに落胆させたが、しかし程なくして、この機械の悪戯は、少なくとも私と、そして幾人かの友人たち――明 晰と情熱の理性たち――を迷妄の推理家に仕立て上げた。

記念すべき最初の解読を試みたのは、我々の誇る良識家――高校教諭Aである。まず彼は、欠損した語の周囲に用いられている文字・ 単語を丹念に調べ上げ、統計的なマトリックスを作成した。それによれば、語の前後50字において最も高い頻度で使用されるのは「眺める」 ないしは「対峙する」なる語であり、つまり視覚に関連した何か、特に後者は客体の存在を暗示していることから、「視られる対象」としての 性質を有する何かを補うのが妥当であると推測される。そう根拠付けた上でAは、失われた語が「風景」であると主張し、 その語を補完した際の書物全体の整合性を流麗な朗読とともに立証してみせた。なるほど安易な文脈主義に堕することなく、 ただ純粋機械的操作的にテクストを分析した彼の手法は我々をひどく感心させたが、しかし「50字」の恣意性に関する問題、 つまり有効範囲を仮に前後100字とした場合に最高使用頻度となる語は「私」であり、50字という枠はAの希望する結論(=「風景」) から遡行的に決定されたのではないかという反論は、致命的なものであった――もちろんAは否定したが。また他方、「風景」を 挿入した際の整合性の確認作業が多分に文脈主義的であり、導出における分析の手法との一貫性がないため、何ら証明の名に価しないとの 反論も噴出した。かくしてAの主張は棄却される。

次に解読に名乗りを挙げたのは、その思考の厳密さで鳴る数学者Bである。彼によれば、仮にその欠語をXとした場合、書物全体(Y)は 変数Xによって定義される非線形関数であり、唯一の解は存在しない。つまりXが変化すればYは変化するが、同時にその変化したYによって Xが変化を受けるため、有限の時間において両者を共に満たす解は得られない。従って、Xは存在はするが、定まることはなく、 その様態はボーアの電子のような確率の雲であるとして結論された。我々の希望を挫いて止まないこの主張はしかし、 Aによる尤もらしい反論――欠陥品でない真正な本においてはXに必ず何語かが充てられているのであり、それを確率的存在に帰する Bの推論は<シュレーディンガーの猫>的誤謬、つまり論理学的問題を数学的確率論に曲解した故の形而上学的混乱に他ならない―― によって一旦退けられた。だが他方、Bの主張は聴唖の哲学者Cによって熱烈に支持され、後日、一見Bの推論の註釈に過ぎないとも思える その論考が電子メールによって配信された。文面は以下の通りである。

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