Dreaming Descartes


デカルトの夢 〜風景に関する存在論的考察〜

いささか議論が迂回した。話を元に戻そう。経験的風景とはつまり、「空」としての経験をその不在において象徴する契機であり、その存在は「空」の存在(×)に求められるものである。このような風景を「象徴的「穴」としての風景」と称するとすれば、そのような風景において、例えば先の写真に抽出されたような景色(図像)がそれと呼び得ないのは明らかである。なぜならそこには経験が、「空」が、ない(これはいささか奇妙な言い回しであるが)。このことは、風景が個人的経験的に規定されることを示し、またそれが外化される際に読みの多義性を誘発することを示す。二人の人間が同じ土地を経験し、それぞれが例えば絵葉書等によってイメージの刷り込みを受け、同一の図像(風景)において経験を定着させたとする。二人は(視覚的には)均一の象徴的契機を持つが、しかしその内実はそれぞれの経験の違いによって異なっている。この場合、風景は伝達されない。二人は不在の点を共有しているだけであり、その存在としての現れは異なっている。

さてここで、先の超越的イデア的風景と、象徴的「穴」としての風景を接続する。このような試みを行う理由は、実際問題として、各個人個人がその土地で経験する内実は異なっているものの、その象徴として不在において現れる風景が、みなよく似通っているということにある。安芸の宮島を経験した私は、その風景として例えば海岸の石ころを定着させても良かったわけだが、しかしやはり一般的に「安芸の宮島」として流通・了解されているような、鳥居を望むパースペクティブを象徴化している。このような事態はなぜ起こるのだろうか。答えは単純である――視の制度がそれを規定しているからだ。この「視の制度」は、先に考察した通りイデア的なものであったが、象徴的「穴」として風景が獲得される際には、「象徴化の跳躍力」として現れる。「空」としての存在は、ある暗示的調和的な飛躍を伴って風景なる裂け目を顕現させる。この運動は、決して合理的で論理的なものではない。意味の平面から垂直に解き放たれた地平において風景は象徴化されるのであり、当の風景を穴としながら存在するところの「空」の総体との有意味的な連絡はなく、ただ「契機」として最も敏感な光景を不在化するのである。このとき、その「敏感さ」こそが、視の制度によって助力されるものである。逆に言えば、視の制度において忘れ去られたような視覚は、経験の総体を一挙に炸裂させるような爆発力に乏しい。なぜなら、まず第一に、より多くの視覚経験が視の制度のもとで行われるためであり、また第二に、より重要な理由として、そのような忘れられた視覚――仮に「持続的視覚」と呼んでおこう――は、象徴として結節されるような吸引力に乏しいためである。制度化された視覚は視野を構成的に捉え、そこに継起する時間を線的なものにして物語を編み上げる。一方、持続的な視覚には、構成的統一性も継起的時間性もない。そこにおいて過去と未来は混濁し、空間は歪み、形態は輪郭を失う。風景として沈殿するものは多かれ少なかれ形態的であらねばならない――つまり記号的であらねばならない――が、持続的視覚はそのような特質を欠く。それは「空」としての存在にはなり得るが、その空の総体と関係するような、つまりそれらによって一瞬にして殺されるような外延的脆さを持ち難い。住み手にはなり得るが、住まわれることは難しいのである。

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